音楽

2007年3月 6日 (火)

君は僕の宝物

ウェディングフォト・シューティング明けの今日、ムショウに槙原敬之の3rdアルバム『君は僕の宝物』が聴きたくなった。

Macky

槙原敬之といえば、今ではSMAPに♪世界にひとつだけの花 を提供したことで有名。実際、この曲は私の周囲でも非常に評価が高い。

確かに良い曲なんだろうけど・・・でも、私はどーもニガテなんだな~、いわゆる“励まし系”ソングが。聴いてて、なんか、こっちの事情も聞かないで一方的に説教されてるような気分になっちゃう。で、いかにも「どーだ良いこと言ってるだろう!(ホレホレ)」って迫られているみたいで、聴けば聴くほど醒めていく自分に気づく。これって、私だけ?J-POPの大ヒット曲って、ポップス調だろうとロック調だろうとヒップホップ調だろうと、歌詞の内容は圧倒的に“励まし系”が多いもんなぁ~。。。

だからといって、私が歌に励まされないわけでは決して、ない。つまり、「ヒトサマを感動させよう。」なんて意図が見え隠れしない、あくまで内省的な歌にこそ、心から励まされ、胸打たれる「ふぉとみっちゃん」なのです。

で、槙原敬之。

彼の作品に他のソースからの流用があろうとなかろうと、彼が音楽の天才であることは疑う余地がないと思うけれど、中でも、“自分自身”が宿命的に抱えているプライドとコンプレックス、あるいは、“自分が生きていること”に対する限りない希望や不安_ そういった内省的なことが素晴しく素直に表現されている初期の作品群(4thアルバム『Self Portrait』まで)が、キワダッて才気走っていると私は思う。

何を隠そう、マッキーと私は同い年。

どんなときも が、まさに一世を風靡した頃、私は明日をも知れぬ苦学生だった・・・同い年でも、色んな人生があるもんだ・・・と、タメイキが出たのを覚えている。但し、♪どんなときも は、内省的な形をとりつつ(大ヒットしただけあって)限りなく“励まし系”っぽい歌なので、私は「フン!」と、そっぽを向いていた。ところが、その後に発売されたシングル♪北風 (*実際には、これがデビュー曲だったのが再発売されたもの。)、さらに、♪もう恋なんてしない を聴くにいたって、「スゴイっ、この男は天才だぁ!!!」と、完全にマイッてしまったのだった。

以前、ブログにも書いた小沢健二は、聴いていて「オザケンに恋する気分」になるのだが、マッキーの場合、痛いくらいに共感し、感情移入せずにはいられない。例えば、♪No.1 という曲の中に

君を笑わせたい力づくでも笑わせたい。そして歳をとり、いつか皺くちゃになったら、そのわけは僕のせいだと言わせたいんだ。君の微笑みは、みんなを幸せにする。

という歌詞がある。こういうの聴くと、「わぁ~アタシも誰かにこーゆーこと言われたいっ」と、いうよりも、「わぁ~アタシも誰かにこーゆーこと言ってみたいっ」と、思ってしまうのだ不思議と(ちなみに♪もう恋なんて・・・ と♪No.1 は、今でも「ふぉとみっちゃん」のカラオケ定番ソングです☆)。

それは、たぶん、同じ時代背景で生まれ育った同い年ならではの共感ということも少しは関係しているような気がする。でも、それ以上に、2000年頃の“スキャンダル”で露呈したマッキーの「中性」感覚が、男女の壁を越えて深く共感を呼ぶ「鍵」なのかなと思ったりする。

ちょうど『君は僕の宝物』をリアルタイムで聴いていた頃、当時つき合っていたカレが私に「“釣った魚に餌はやらない”って言うやろ?」と、言ったことがあった。笑いながらの冗談だったのだけれども、私は思わずゾッとしてしまった。あまりといえばあまりにも理にかなった言葉だけに、余計、許しがたく・・・。でも、ここで目くじら立てて怒ったら、本当に自分が餌に飢えた魚みたいになりそうで何も言えなかった。問題なのは、釣ったか釣られたか、とか、餌をやるかやらんか、とかではなくて・・・。ひとつ確かなのは、「アタシだったら死んでも言いたくない言葉だわっ」と思ったことだった。

マッキーはアルバム表題曲♪君は僕の宝物 の中で、歌う。

神様ねぇもし僕が彼女と居ること当たり前に思ったら力いっぱいつねってください、幸せの意味を忘れぬように

だよね~やっぱり★

私、マッキーとはゼッタイ良い飲みトモになれると思う

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2006年9月 1日 (金)

小沢健二

私がまだ大学の研究室に居た頃、後輩の男の子からラブレター代わりにもらった1本のカセットテープ(「ふぉとみっちゃん」にも、そんな時代があったのだ~)、それが小沢健二の『LIFE』でした。そのカセットを暗室や寝床で今も聴き続けている私…つまりは、そのコよりもオザケンの方に惚れてしまったのでした、チャンチャン

私にとってオザケンの魅力は、ずばり『存在の耐えられない軽さ』。

飄々と勝手気ままに生きている(人を喰った)ような歌と歌いっぷり―だけど、よぅく耳を澄ませると、(イカニモ深刻ぶった音楽からは決して感じられない)鋭さや哀しみが、そこはかとなく伝わってくるのです。こんな粋で高度な音楽表現は、本物の天才にしかできないことでしょう。

しかも、「(自分=)王子様。」だとか「(彼女=)仔猫ちゃん。」だとかいうようなオザケン・ワールドに対して、「一過性の流行」とか「調子に乗るんじゃない!」みたいな評価をしたがる『世間』というものの中で、“オザケン”は、存在し続けるには余りにも『軽い』―かといって、その軽さを失くしてしまったら、もはや存在価値をも失くしてしまう―そんな、いわば宿命的に『はかない』存在だったのだと、私は『LIFE』を聴きながら感じずにはいられません。

♪いつだって おかしいほど 誰もが誰か 

愛し愛されて生きるのサ

それだけが ただ 僕らを悩めるときにも 

未来の世界へ連れてく♪

こんなに『軽い』―鋭くて哀しくてはかない歌(アーティスト)が、今のこの世間に存在するんでしょうか。

さて、今どきオザケンも何も無いのかなーと思っていたら、私以上にスジガネ入りの(歳は十以上若い)アスカちゃんという仲間を発見!彼女から「(オザケンがソロ・デビュー前に所属していた)『フリッパーズ・ギター』の復刻盤CDが発売されますよー」という情報を得ていたので、昨日、ウェディング・アルバムの納品の帰り、梅田のタワー・レコードへ寄り道。フリッパーズは作曲とヴォーカルがオザケンじゃないし、買わずにちょっと見るだけ…のつもりが、モニターに映し出された、10何年かぶりに見る「動くオザケン」の姿にすっかり心打たれて、思わずDVDを買って来てしまいました。

ナカナカ惚れない代わりに、いったん惚れたらトコトン想い続ける「ふぉとみっちゃん」なのであります―いや、ほんと。

注1)『存在の耐えられない軽さ』という小説(ミラン・クンデラ、集英社文庫)および映画も大変な傑作です。

注2)オザケンのオジサン、(指揮者の)小澤征爾が書いた青春自叙伝、『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)も、私が海外へ出るとき座右の書としているメチャメチャ面白い名著です。

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